大瀧詠一の息子は大瀧詞巧!父親や実家、自宅について調べてみた

ミュージシャンや音楽プロデューサーとして、日本の音楽業界を支えた大瀧詠一さん。

バンドからソロ作品まで、幅広く活動されていました。

今回は、そんな大瀧詠一さんの息子や娘、父親、母親等について迫っていきたいと思います。

大瀧詠一の息子・大瀧詞巧について

出典元:Instagram

それでは、大瀧詠一さんの息子・大瀧詞巧さんについて見ていきましょう。

 

幼少期に大瀧詠一のアルバムで声の出演

出典元:Instagram

大瀧詞巧さんは幼少期に大瀧詠一さんのアルバムで、声の出演をされていたことが分かりました

1975年にリリースされた「三文ソング」のエンディングにて、″サッチモォ、アハッ″と言っている子供の声が、大瀧詞巧さんの声だとして知られています。

細かいところにまで楽曲の工夫が凝らされていることに驚きです。

大瀧詞巧さんも楽しんで収録に参加されたのではないでしょうか。

 

現在は娘婿で音楽評論家・音楽プロデューサーの坂口修とともに『ナイアガラ・レーベル』を継承

出典元:Instagram

大瀧詞巧さんは、大瀧詠一さんが亡くなった後に『ナイアガラ・レーベル』を継承しました。

出典元:

現在は、娘婿と音楽プロデューサーの坂口修さんでレーベルを支えており、親族の手で今でも音楽を作り続けています。

父親の生み出した音楽を継承することは素晴らしいですね。

これからも共に苦難を乗り越え、音楽を作り続けてほしいです!

 

大瀧詠一の娘について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんには娘がいることが分かりました。

音楽プロデューサーの坂口修さんと結婚した後、大瀧詞巧さんと共に音楽制作に携わり、大瀧詠一さんの音楽遺産の管理・継承に関わってきているようです。

また、2014年に発売された大瀧詠一さんのベストアルバム『Best Always』の制作の監修を務めています。

息子の大瀧詞巧さんと共に音楽制作をされているのですね!

遺産を継承するという強い意志がある方なのかもしれません。

 

大瀧詠一の嫁・大瀧静子について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんと大瀧静子さんは、1972年に結婚されました。

お二人の間には、息子の大瀧詞巧さんと娘さんが生まれています。

大瀧詠一さんが急性された際には、最後の瞬間を見守られ、自宅で共に過ごされました。

「お別れの会」では、大瀧詠一さんの最後の様子や感謝の言葉を述べられ、死後も大瀧詠一さんの遺産の継承に尽力されています。

最後まで夫を支え続けた奥様はとても立派ですね。

お二人に深い絆があったことが伺えます。

 

大瀧詠一の父親について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんの本名は菊池榮一さんです。

大瀧詠一さんは父親の姓である「菊池」を名乗っています。

しかし、具体的な情報は分かっておらず、大瀧詠一さんは母子家庭で育ったとされています。

大瀧詠一さんの姓は菊池だったのですね。

父親がどんな人物だったのか気になります。

 

大瀧詠一の母親について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんの母親は、小学校の養護教諭を務めていました。

母子家庭で育った大瀧詠一さんは、歌が好きな母親と一緒に歌の練習をすることが日課でした。

また、母親の職場に連れて行くこともあり、職員室では「めだかの学校」をリクエストされることがあったそうです。

このような環境が、大瀧詠一さんの音楽的才能を育んだ一因となった可能性があります。

幼い頃から音楽に溢れた家庭だったのですね!

才能が徐々に芽吹いていったという感じでしょうか。

 

大瀧詠一の実家について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんの実家は岩手県江刺群梁川村だと分かりました。

江戸時代に仙台藩の下級武士として、南部藩との藩境を警備する家系だったそうです。

大瀧詠一さんは幼少期を岩手県で過ごした後、18歳で上京し、音楽活動を開始しました。

大瀧詠一さんの音楽的才能は、岩手県で育まれていったのですね。

岩手での子供時代は、大瀧詠一さんにとってかけがえのないものであったのでしょう。

 

大瀧詠一の自宅について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんは1973年から、東京都西多摩郡瑞穂町に居住していました。

横田基地近くの米軍ハウスを自宅兼スタジオとして使用していたそうです。

「福生45スタジオ」と呼ばれたこの場所で、数々の名作が生み出されました。

瑞穂町図書館には、ファンの聖地ともなっている「大瀧詠一ライブラリー」が設置され、CDや関連書籍、写真などのグッズが展示されています。

米軍ハウスを自宅兼スタジオとして使うなんて何だかおしゃれですよね!

瑞穂町へ行く際には、図書館にも立ち寄ってみたいです。

 

大瀧詠一の性格について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんは、音楽に対する探究心と独自のユーモアセンスを持ち合わせた人物で、海外のポップスから日本の歌謡曲まで幅広く豊富な知識がありました。

真面目な話にもジョークを混ぜるユーモアと知識を駆使して音楽を創り続けたそうです。

その他、「2001年ナイアガラの旅」という架空の計画を語ってファンを驚かせるなど、個性溢れる人柄であったとされています。

本人の性格や人柄が、作品にも表現されているのですね。

真面目にユーモアを持って音楽を創る、素敵です!

 

大瀧詠一の葬儀に山下達郎は参加したか不明

出典元:Instagram

大瀧詠一さんの葬儀に山下達郎さんが参列したかどうかは不明です。

また、「お別れの会」にも参列したかどうかの詳細はありません。

しかし、山下達郎さんは2014年1月5日のラジオ番組にて、大瀧詠一さんの訃報について触れていました。

「大瀧さんのあまりにも突然な、あまりにも早すぎるご逝去を悼み、40年間の長きにわたる語り尽くせぬ多大なご厚情に心より感謝し、謹んでお悔やみ申し上げます。」と山下達郎さんはコメントを残しています。

お二人の信頼関係の分かるコメントに胸が熱くなりました。

葬儀に参列したかどうかは分かりませんが、お二人の絆は確かなものだったのだと思います。

 

大瀧詠一の死因について

出典元:Instagram

大瀧詠一さんは、2013年12月30日に東京都瑞穂町の自宅で亡くなられました。

当日、スタジオから帰宅し、リンゴを食べようと皮をむいていた際に突然倒れられたそうです。

死因は解離性大動脈瘤と報じられており、亡くなる1週間前には脳の不調を訴えていたそうですが、アルバム制作に追われていたため病院には行かなかったと伝えられています。

仕事の忙しさから、疲れも溜まっていたのでしょうか。

親しい人との別れはいつ訪れるか分からないと実感します。

大瀧詠一さんの音楽がこれからも愛され続けますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.