石坂浩二(78歳)さんは『犬神家の一族』の金田一耕助役やNHK大河ドラマなど、映画や舞台ドラマに数多く出演する俳優です。
また、タレント・司会者・画家・作家・翻訳家・作詞家・ナレーターとしても活動。
そんな石坂浩二の若い頃がイケメンすぎるるのです。
ということで今回は石坂浩二さんの若い頃についいて紹介していきます。
目次
石坂浩二の若い頃はイケメンすぎ!
今でも知的でダンディーで格好良い石坂浩二さんですが、若い頃もとてもイケメン。
若い頃から演じていた役もイケメンが多かったよう。
出典:https://www.nhk-ondemand.jp/
あのGACKTさんも演じた大河ドラマの上杉謙信役を1969年の大河ドラマ『天と地と』で演じていました。
この役はイケメンが演じることにでもなっているんでしょうか。
1970年の映画『風の慕情』では主演を務めた石坂浩二さん。
脚本は『渡る世間シリーズ』で有名な橋田寿賀子さん。
ちなみに石坂浩二という名前にしたのは、まだ本名で芝居をやっているときにTBSのテレビプロデューサーだった石井ふく子さんに見いだされ、改名を勧められたのがきっかけみたいですよ。
つまり橋田寿賀子さんと石井ふく子さんという、『渡る世間シリーズ』の黄金コンビとも関わりがあったということです。
そんな石坂浩二さんは1976年には『犬神家の一族』で金田一耕助を演じます。
金田一耕助は横溝正史の推理小説に登場する架空の私立探偵です。
石坂浩二さんは6回金田一耕助を演じています。
6作品すべて監督は市川崑(いちかわこん)さんが務め、石坂浩二さんと市川崑さんは深い友情で結ばれることとなり、市川崑さんが亡くなった際には石坂浩二が弔辞を読んでいます。
実は石坂浩二さんは探偵役に縁があります。
テレビドラマ『Yの悲劇』でドルリー・レーン、映画『危険な女たち』でエルキュール・ポアロに相当する役を演じ、舞台『十二人の怒れる男』の8号陪審員などとあわせ、推理ドラマでの探偵役を多く演じています。
ここからはとにかく若い頃の石坂浩二さんの画像をみていきましょう。
ちなみに余談ですが、石坂浩二さんは大河ドラマ主演回数は史上最多の3回です。
これは西田敏行さんも一緒です。
1回目は1969年の『天と地と』の上杉謙信。
2回目は1975年の『元禄太平記』の柳沢吉保。
3回目は1979年の『草燃える』での源頼朝。
役なしでの出演も入れた出演作品で考えると実に11回出演していることになりとんでもないことですよね。
石坂浩二の若い頃はあの人気芸人にそっくり!
石坂浩二さんが若い頃がイケメンというのは分かりましたが、似ている芸能人はいるのでしょうか?
上の画像を使って石坂浩二さんの似ている芸能人を調べてみました。
1位藤森慎吾
出典: https://www.instagram.com/
これは似てますね!
メガネなしをみてみましょう。
出典: https://www.instagram.com/
出典: https://www.instagram.com/
横に並べてみました。
目の感じが似ている気がします。
後、歯並びも。
ただ当時の石坂浩二さんは大学4年生。
対して藤森慎吾さんは現在40歳。(写真の年齢は35歳)
年齢に乖離があるので、30代の石坂浩二と比較してみます。
1978年の映画「女王蜂」、当時石坂浩二は37歳です。
年齢の乖離はほとんどなくなりましたが、これはあんまりにていなですね。
次はどうでしょう。
あ!これは似てますね笑
次に2位をみてみましょう。
2位西野亮廣さん。
3位有吉弘行さん。
んーそんなに似ていませんね。
藤森慎吾さんが似過ぎてましたね。
他に似てる芸能人について
他に似ている芸能人はいないかネットで調べてみました。
確かに全員似ていますね!
皆さんはどう思いましたか?
それにしても上がる名前はイケメンばかりですw
石坂浩二の若い頃について
出典:https://www.asahi.com/?iref=com_gnavi_top
改めてここからは石坂浩二さんの若い頃をみていきましょう。
高校時代の1958年、ドラマ『お源のたましい』に通行人のエキストラでデビューし、1967年に、出演した『泥棒たちの舞踏会』で演出家・浅利慶太さんのスカウトをきっかけに劇団四季へ入団。
劇団では演出部に所属し、浅利慶太さんのサポートを務めていた石坂浩二さん。
在籍中に台本・作詞を手がけた子供向けミュージカル『王子とこじき』は退団後も上演され続け、2014年もなおファミリーミュージカルの演目の1つとしてリストアップされています。
ドラマ・映画出演と演出助手の両立は多忙を極め、1967年、TBSドラマ『平四郎危機一発』の出演中に倒れ、胃潰瘍と診断されたことにより、劇団四季を退団。
体を酷使し続けて結果ですから無理もないですね。
退団後も俳優業と並行しての脚本家活動はしばらく続き、1972年頃までNHK教育の子供向け番組の脚本を書いていました。
ちなみに芸名の由来は、親友の大空真弓さんが自分の好きな作家・石坂洋次郎さんと俳優・鶴田浩二さんからそれぞれ拝借して名づけたことによります。
石坂浩二さん本人によると、まだ本名で芝居をやっているときTBSのテレビプロデューサー石井ふく子さんに見いだされ、改名を勧められ“石”のつく芸名(石井ふく子の“石”を採ったとも言われている)を大空真弓さんの父親が姓名判断をしていたこともあり『石坂浩二』に決まったそうですよ。
舞台「黒蜥蜴(とかげ)」にエキストラで出演
慶應義塾大学に進学した石坂浩二さんは、『新演劇研究会』に所属すると、1962年には舞台衣装を借りるため演劇プロデューサーの吉田史子さんに会いに行ったそう。
その際、「貸す代わりに、あなたたち、次の私の芝居で通行人役をやって」と吉田史子さんに言われ、仲間とともに『黒蜥蜴(とかげ)』に通行人役などのエキストラとして舞台に出演。
『黒蜥蜴』には、慶応大学在学中に『新演劇研究会』を設立された芥川比呂志さんが出演されていたそうで、芥川比呂志さんは石坂浩二さんたちが『新演劇研究会』の部員であることを知ると「おお、君らもそうなのか」と、とても喜んでくれたとか。
石井ふく子に見出され「七人の刑事」で俳優デビュー
この『黒蜥蜴』で石坂浩二さんたちは、出番以外は暇で楽屋でプラモデルを作っていたそう。
そのとき、黒蜥蜴にさらわれる令嬢役で出演されていた大空眞弓さんが遊びに来て「何してるの?私も作りたい」と言われ、石坂浩二さんは、大空眞弓さんにプラモデルの作り方を手ほどきすることとなり、公演中何度も大空眞弓さんの楽屋にお邪魔していたみたいです。
なんだか面白い縁ですね。
そんなある時、いつものように大空眞弓さんの楽屋にいたところ、同じく大空眞弓さんの楽屋に頻繁に訪れていたTBSのプロデューサーである石井ふく子さんがやって来た。
そして石井ふく子さんに「あなた、劇研だったら、ちゃんとテレビなんか出たくないの?」「セリフのある役、やってみたくないの?」と言われ、石坂浩二さんは「出たいですよ、それは!」「やってみたいですよ、それは!」などと、軽い会話をしたそう。
そりゃあTVに出たいですもんね!
そんな発言をしたのですが石坂浩二は特に期待はしていませんでした。
ただのリップサービスだと思いますもんね。
ところがそれから2週間後「局まで来て」と、石井ふく子さんから電話があり、石井ふく子さんを訪ねてTBSまで行くと、そこには、当時の人気ドラマ『七人の刑事』のディレクターがいて、「容疑者の青年役だけど、やるかい?」と、聞かれたそうです。
すぐさま、石坂浩二さんは、「やります!」と答え、1962年20歳の時『七人の刑事』で、母親が真犯人であることを知らない息子という大役で俳優デビュー。
出典:https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/
すると、石坂浩二さんの演技はたちまち高い評価を受けました。
ちなみに、母親役の千石規子さんは、「初出演の相手が私だった人は、みんな大物になるのよ」と、声をかけてくれたそうで、以来、石坂浩二さんは、千石規子さんのことを「お母さん」と、呼ぶほど親しくなったそうです。