皆さんは、「世耕弘一=せこうこういち」という人物をご存知でしょうか。
音楽プリデューサーのつんくさんが卒業したことでも有名である近畿大学の創設者・初代理事長にして元衆議院議員、元経済企画庁長官というと「え、そうなの!すごい人!」と思うかもしれませんね。
今回は、そんな世耕弘一さんの家系図についてご紹介していきたいと思います。
目次
世耕弘一の家系図について
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では、さっそく世耕弘一さんの家系図について見て行きましょう。
各人の驚きの経歴、しかとご覧ください。
長男・世耕政隆
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世耕弘一さんの長男・世耕政隆さん。
1923年に生まれた世耕政隆さんは、日本大学医学部を卒業以後、同大学の皮膚科学の教授を歴任。
1960年には医学博士になり、1965年には父である世耕弘一さんの後を継ぎ近畿大学の2代目理事長に就任し、大学の発展に尽力。
また、1967年には衆議院議員に初当選し、1971年からは参議院議員になり5期連続当選、1981年に自自大臣、国家公安委員会委員長を務めます。
また、芸術的な際にも恵まれた世耕政隆さんは、芸術家の草間彌生さんとの共著で詩画集「七」を出版。
大学界、医学会、政界、芸術界に精通した人物です。
長男の娘・つる子の旦那は森元恒雄
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そんな世耕弘一さんの娘・世耕つる子さんは名家の令嬢に相応しい相手と結婚。
世耕つる子さんの旦那は、自治省の官僚である森元恒雄さん。
1947年6月17日生まれで、東京大学法学部卒のエリート官僚。
錚々たる経歴の世耕家とは深い関りがあり、政界や教育界での潤滑油としての役割を果たしたと考えられています。
次男・世耕克己
次男の世耕克己さんは、兄である世耕政隆さん同様医学部に進学し、医師となりました。
最終的に、開業医となり地域医療の発展に貢献した世耕克己さん。
特に、胃腸科の専門医としての活動には定評があるといいます。
政界、教育界、医療界などに大きな影響力を持つ世耕家の一役を担う存在であったことは確かです。
三男・世耕弘昭
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三男の世耕弘昭さんは、1932年生まれの教育者。
日本大学法学部を卒業した彼は、教育者として学業の世界で尽力しました。
最終的には、3代目の近畿大学理事長に就任し、通信教育制度の拡充に努め、同大学の学生の裾野を大きく開いたと言っても過言ではない実績をもたらしています。
また、大阪の大実業家として大きな存在であった寺内石夫さんの長女である寺内基子と結婚し、世耕家の経歴の中に商才という風を吹き込みました。
三男の長男・世耕弘成!嫁は林久美子
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三男である世耕弘昭さんの長男は参議院議員の世耕弘成さん。
NTT本社広報部報道担当課長を経て、4代目・6代目の近畿大学理事長を務める世耕弘成さんの嫁は、民主党衆議院議員の林久美子さんです。
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二人は、政界きってのおしどり夫婦としての側面も見せ、圧倒的な経歴を誇る世耕家に、現代的な「男女平等」「夫婦共働き」「現代社会における新しい夫婦の姿」という側面を加えました。
多彩な世耕家の経歴にさらに色を着けた功績は、これからより大きくなっていくでしょう。
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三男の次男・世耕石弘
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三男の次男である世耕石弘さん。
1969年に生まれた世耕石弘さんは、同志社大学を卒業し近畿日本鉄道でホテル事業や広報担当として活躍。
後に、近畿大学経営戦略本部で本部長を務め、優れた広報戦略で大学志望者を大きく拡大する実績を上げています。
その実績の根底には、ブランド戦略があり世間の注目を集めた「近代マグロ」などの先駆的取り組みは、経済的にも大きな評価があります。
この実績で、各種メディアで取材や講演活動にひっぱりだこの世田谷石弘さんを目にしたことのある方も多いでしょう。
少子化の結果、学生の取り合いによって経営に継承が鳴らされる大学界のホープ、その功績はかなりのものです。
世耕弘一の家族について
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では、ここからは世耕弘一さんの家族について見て行きましょう。
世耕弘一さんは、世耕佐七さんと母親の五男として、和歌山県の寒村に生まれます。
決して豊かではなかった世耕家の中で、高等学校までを首席で卒業した世耕弘一さん。
農村の働き手としての側面もあり、多くの兄弟がいた環境の中で学業への思いは強かったのではないでしょうか。
世耕弘一さんの学業や人生については後述します。
なお、上記写真は近畿大学を創設したころに紀子夫人と撮影したものであると言われています。
世耕弘一の実家について
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では、世耕弘一さんの実家について見てみます。
和歌山県東牟婁郡敷屋村西敷屋(現在の新宮市熊野川町西敷屋)もある実家は、当時は農業地帯でした。
家族全員で農業に加担することが一般的だった当時は、兄弟も含めて田畑を耕し農業で生計を立てていたのです。
そんな中で中学校への進学を断念した世耕弘一さんでしたが、独学で勉学に励み13歳で高等小学校を首席で卒業。
新宮市内の木材店に丁稚奉公するまでの十数年間を、この実家で過ごしました。
世耕弘一の生い立ちについて
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農家に生まれた世耕弘一さんは、学業優秀で高等小学校まで成績はトップ。
世耕弘一さんが生まれた明治という時代は、日本が近代化に大きく舵を切った時代であり、「学業こそが時代を切り開く」という血が流れ始めたときでした。
そんな風を感じながら、学業にも、家業である農業や家系を助けるための丁稚奉公にも精を出した世耕弘一さん。
何があっても生きていく胆力を養いながら、学業への熱き思いを心に忍ばせていた生い立ちだったのではないでしょうか。
近代国家としてはまだまだ黎明期にあった、この時代ならではの生い立ちです。
経済的な理由から中学校への進学を断念
当時の一般的な農家の経済力では、中学校や高等小学校への進学は容易なものではありませんでした。
故に、世耕弘一さんも経済的な理由から中学校への進学を断念。
学業への熱き思いの合った弘一少年にとっては、ある種、断腸の思いだったかもしれません。
材木商での奉公と独学
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しかし、新宮市内の木材商に丁稚奉公に行った後も、独学で勉強を続けたのが世耕弘一さんの胆力。
25歳まで懸命に働いて手にしたお金を学びに費やし、東京神田の英語学校に進学を決意します。
こうまでして学業への情熱を突き通す信念は本当に素晴らしく、頭が下がりますね。
そして、この進学が世耕弘一さんの大きな大きな転機となったのでした。
日本大学での学びとドイツ留学
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英語学校で学んだあとは、更に学業に傾倒し日本大学法学部に進学。
そこでの成績や志に目を奪われ大学当局が、ドイツ留学というステージを開いてくれたのでした。
当時は法制先進国であったドイツは、大日本帝国憲法の元にもなったほどの法治統制力を有していました。
そんなドイツのベルリン大学で法律や政治について深く学んだ世耕弘一さん。
この経験が、彼を政界へといざなったのでした。
政治家としての反骨精神
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近代化に舵を切った明治時代に生まれた世耕弘一さん。
その時代の風を受けて、大正時代も国家全体が新しく生まれ変わる機運も強く、学業を修めた人間は政治や産業の道へと進んむことが王道でした。
ドイツから帰国した世耕弘一さんも、当たり前のように強い気持ちを持って政治の世界へと進んで行きます。
1932年に衆議院議員に初当選すると、以降30年以上国会議員として活動。
権力のある一部の人間が既得権益で私腹を肥やすような動きを許さず、国民の立場に立った反骨精神のある政治家として大きな信頼を得て行くのでした。
特に、軍事政権としての側面もあった東条英機内閣の動きを変え民主主義を守るための同好会結成などは、国民の大きな支持を獲得します。
圧倒的に強大な国家権力に屈しないこの胆力と理想、これは容易なことではなかったのではないでしょうか。
近畿大学の創設と教育者としての情熱
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そのような動きの背景には、教育者としての熱き思いもあったでしょう。
1949年に近畿大学を創設し、実学教育と人格の陶冶(精神の磨き)を根幹に据えた教育の発展を目指しました。
自らの人生の中で、学問が人生を切り開いてきたという強い信念と実績が近畿大学の教育理念の中心となったことは言うまでもないでしょう。
この理念に基づいて築かれた近畿大学は、文学部から医学部までを有する総合大学として大きく発展していますね。
さて、今回は、世耕弘一さんの家系図についてご紹介しました。
圧倒的な胆力を持って学業と信念で自らの人生を切り開いた世耕弘一さんの情熱や熱量を引き継いだ家系図の面々が、それぞれの信念を持って活躍する。
端的に言えば「世耕弘一の家系図がヤバすぎる」と言っても過言ではない事実。
時代を作ってきた浪漫や華麗なる一族のスケールの大ききさや驚きを感じざるを得ませんでした。
このような偉人たちが築き上げてきた近代日本の中に生きていることをこの機会に胸に抱き、私たちも前に進みたいものですね。
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